P--997 P--998 P--999 #1持名鈔 #2本    持名鈔 本 【1】 ひそかにおもんみれば、人身うけがたく仏教あひがたし。しかるにいま、 片州なれども人身をうけ、末代なれども仏教にあへり。生死をはなれて仏果に いたらんこと、いままさしくこれときなり。このたびつとめずして、もし三途 にかへりなば、まことに宝の山に入りて、手をむなしくしてかへらんがごと し。なかんづくに、無常のかなしみはまなこのまへにみてり、ひとりとしても たれかのがるべき。三悪の火坑はあしのしたにあり、仏法を行ぜずはいかでか まぬかれん。みなひとこころをおなじくして、ねんごろに仏道をもとむべし。 【2】 しかるに仏道においてさまざまの門あり。いはゆる顕教・密教、大乗・ 小乗、権教・実教、経家・論家、その部八宗・九宗にわかれ、その義千差万 別なり。いづれも釈迦一仏の説なれば、利益みな甚深なり。説のごとく行ぜば ともに生死を出づべし、教のごとく修せばことごとく菩提を得べし。ただし P--1000 時、末法におよび、機、下根になりて、かの諸行においては、その行成就して 仏果をえんことはなはだ難し。いはゆる釈尊の滅後において、正像末の三時あ り。そのうち正法千年のあひだは教・行・証の三つともに具足しき、像法千年 のあひだは教・行ありといへども証果のひとなし、末法万年のあひだは教のみ ありて行・証はなし。今の世はすなはち末法のはじめなれば、ただ諸宗の教門 はあれども、まことに行をたて証をうるひとはまれなるべし。されば智慧をみ がきて煩悩を断ぜんこともかなひがたく、こころをしづめて禅定を修せんこと もありがたし。 【3】 ここに念仏往生の一門は末代相応の要法、決定往生の正因なり。この門 にとりてまた専修・雑修の二門あり。専修といふは、ただ弥陀一仏の悲願に帰 し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり。雑修とい ふは、おなじく念仏を申せども、かねて他の仏・菩薩をも念じ、また余の一切 の行業をもくはふるなり。このふたつのなかには、専修をもつて決定往生の 業とす。そのゆゑは弥陀の本願の行なるがゆゑに、釈尊付属の法なるがゆゑ に、諸仏証誠の行なるがゆゑなり。おほよそ阿弥陀如来は三世の諸仏の本師 P--1001 なれば、久遠実成の古仏にてましませども、衆生の往生を決定せんがために、 しばらく法蔵比丘となのりて、その正覚を成じたまへり。かの五劫思惟のむか し、凡夫往生のたねをえらび定められしとき、布施・持戒・忍辱・精進等のも ろもろのわづらはしき行をばえらびすてて、称名念仏の一行をもつてその本 願としたまひき。「念仏の行者もし往生せずは、われも正覚を取らじ」と誓ひ たまひしに、その願すでに成就して成仏よりこのかたいまに十劫なり。如来の 正覚すでに成じたまへり、衆生の往生なんぞ疑はんや。これによりて釈尊は この法をえらびて阿難に付属し、諸仏は舌をのべてこれを証誠したまへり。 かるがゆゑに一向に名号を称するひとは、二尊の御こころにかなひ、諸仏の本 意に順ずるがゆゑに往生決定なり。諸行はしからず。弥陀選択の本願にあら ず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらざるがゆゑなり。 【4】 されば善導和尚の『往生礼讃』のなかに、くはしく二行の得失をあげら れたり。まづ専修の得をほめていはく、「もしよく上のごとく、念々相続して 畢命を期とするものは、十はすなはち十ながら生れ、百はすなはち百ながら生 る。なにをもつてのゆゑに、外の雑縁なくして正念を得るがゆゑに、仏の本願 P--1002 に相応するがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順するがゆゑに」とい へり。「外の雑縁なくして正念を得るがゆゑに」といふは、雑行・雑善をくは へざれば、そのこころ散乱せずして一心の正念に住すとなり。「仏の本願と相 応するがゆゑに」といふは、弥陀の本願にかなふといふ。「教に違せざるがゆ ゑに」といふは、釈尊のをしへに違はずとなり。「仏語に随順するがゆゑに」 といふは、諸仏のみことにしたがふとなり。  つぎに雑修の失をあげていはく、「もし専を捨てて雑業を修せんとするもの は、百のときにまれに一二を得、千のときにまれに五三を得。なにをもつての ゆゑに、雑縁乱動して正念を失ふによるがゆゑに、仏の本願と相応せざるによ るがゆゑに、教と相違するがゆゑに、仏語に順ぜざるがゆゑに、係念相続せざ るがゆゑに、憶想間断するがゆゑに、回願慇重真実ならざるがゆゑに、貪・ 瞋・諸見の煩悩きたりて間断するがゆゑに、慚愧してとがをくゆることなきが ゆゑに、また相続して仏恩を念報せざるがゆゑに、心に軽慢を生じて業行をな すといへどもつねに名利と相応するがゆゑに、人我みづから覆ひて同行善知識 に親近せざるがゆゑに、楽ひて雑縁にちかづきて往生の正行を自障障他する P--1003 がゆゑに」といへり。雑修のひとは弥陀の本願にそむき、釈迦の所説にたが ひ、諸仏の証誠にかなはずときこえたり。  なほかさねて二行の得失を判じていはく、「意をもつぱらにしてなすものは、 十はすなはち十ながら生る、雑を修して心を至さざるものは、千のなかにひと りもなし」といへり。雑修のひとの往生しがたきことをいふに、はじめには、 しばらく百のときに一二をゆるし、千のときに五三を挙ぐといへども、のちに はつひに千人のなかにひとりもゆかずと定む。三昧発得の人師、ことばを尽し て釈したまへり。もつともこれを仰ぐべし。 【5】 おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行を まじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」と判ずるは、和尚(善導)の 解釈なり、念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねをを しへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。一流の宗義さらにわたくしな し。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念 仏を行ずべきなり。  しかるに、うるはしく一向専修になるひとはきはめてまれなり。「難きがな P--1004 かに難し」といへるは、『経』(大経・下)の文なれば、まことにことわりなる べし。そのゆゑを案ずるに、いづれの行にても、もとよりつとめきたれる行を すてがたくおもひ、日ごろ功をいれつる仏・菩薩をさしおきがたくおもふな り。これすなはち、念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀 に帰すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑 ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり。  おほよそ持戒・坐禅のつとめも転経・誦呪の善も、その門に入りて行ぜん に、いづれも利益むなしかるまじけれども、それはみな聖人の修行なるがゆゑ に、凡夫の身には成じがたし。われらも過去には三恒河沙の諸仏のみもとにし て、大菩提心を発して仏道を修せしかども、自力かなはずしていままで流転の 凡夫となれり。いまこの身にてその行を修せば、行業成ぜずしてさだめて生 死を出でがたし。されば善導和尚の釈(散善義)に、「わが身無際よりこのか た、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごと く身命を惜しまず、道を行じ位にすすみて因まどかに果熟す、聖を証せるもの 大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、乃至今日まで虚然として流浪す」 P--1005 といへるはこのこころなり。しかれば仏道修行は、よくよく機と教との分限を はかりてこれを行ずべきなり、すべからく末法相応の易行に帰して、決定往 生ののぞみをとぐべしとなり。 【6】 そもそもこの念仏はたもちやすきばかりにて功徳は余行よりも劣ならば、 おなじくつとめながらもそのいさみなかるべきに、行じやすくして功徳は諸行 にすぐれ、修しやすくして勝利は余善にすぐれたり。弥陀は諸仏の本師、念仏 は諸教の肝心なるがゆゑなり。これによりて、『大経』には一念をもつて大利 無上の功徳と説き、『小経』には念仏をもつて多善根福徳の因縁とするむねを 説き、『観経』には念仏の行者をほめて人中の分陀利華にたとへ、『般舟経』 には「三世の諸仏みな弥陀三昧によりて正覚をなる」(意)と説けり。このゆゑ に善導和尚の釈(定善義)にいはく、「自余衆善 雖名是善 若比念仏者 全非 比校也」といへり。こころは、「自余のもろもろの善も、これ善と名づくとい へども、もし念仏にたくらぶれば、まつたくならべたくらぶべきにあらず」と なり。またいはく、「念仏三昧功能超絶 実非雑善得為比類」(散善義)といへ り。こころは、「念仏三昧の功能余善に超えすぐれて、まことに雑善をもつて P--1006 たぐひとすることを得るにあらず」となり。  ただ浄土の一宗のみ念仏の行をたふとむにあらず、他宗の高祖またおほく弥 陀をほめたり。天台大師(智&M043614;)の釈(止観)にいはく、「若唱弥陀 即是唱十 方仏 功徳正等 但専以弥陀 為法門主」といへり。こころは、「もし弥陀を 唱ふれば、すなはちこれ十方の仏を唱ふると功徳まさにひとし、ただもつぱら 弥陀をもつて法門の主とす」となり。また慈恩大師の釈(西方要決)にいはく、 「諸仏願行成此果名 但能念号具包衆徳」といへり。こころは、「諸仏の願 行、この果の名を成ず、ただよく号を念ずれば、つぶさにもろもろの徳を包 ぬ」となり。おほよそ諸宗の人師、念仏をほめ西方をすすむること、挙げてか ぞふべからず、しげきがゆゑにこれを略す。ゆめゆめ念仏の功徳をおとしめお もふことなかれ。 【7】 しかるにひとつねにおもへらく、つたなきものの行ずる法なれば念仏の 功徳は劣るべし、たふときひとの修する教なれば諸教は勝るべしとおもへり。 その義しからず。下根のもののすくはるべき法なるがゆゑに、ことに最上の法 とはしらるるなり。ゆゑいかんとなれば、薬をもつて病を治するに、かろき病 P--1007 をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病を しりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし、機 をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には 念仏をすすむ。これすなはち戒行もまつたく、智慧もあらんひとは、たとへば 病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。 智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごとし。これを ば弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず。かるがゆゑに罪悪 の衆生のたすかる法ときくに、法のちからのすぐれたるほどは、ことにしらる るなり。されば『選択集』のなかに、「極悪最下の人のために、しかも極善最 上の法を説く。例せば、かの無明淵源の病は中道府蔵の薬にあらざれば、すな はち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり、また この念仏は霊薬の府蔵なり。この薬にあらずはなんぞこの病を治せん」といへ るは、このこころなり。  そもそも弥陀如来の利益のことにすぐれたまへることは、煩悩具足の凡夫の 界外の報土に生るるがゆゑなり。善導和尚の釈(法事讃・下)にいはく、「一切 P--1008 仏土皆厳浄 凡夫乱想恐難生 如来別指西方国 従是超過十万億」といへり。 こころは、「一切の仏土はみないつくしくきよけれども、凡夫の乱想おそらく は生れがたし。如来別して西方国をさしたまふ、これより十万億を超え過ぎた り」となり。ことに阿&M041309;・宝生の浄土もたへにしてすぐれたり。密厳・華蔵の 宝刹もきよくしてめでたけれども、乱想の凡夫はかげをもささず、具縛のわれ らはのぞみをたてり。しかるに阿弥陀如来の本願は、十悪も五逆もみな摂し て、きらはるるものもなく、すてらるるものもなし。安養の浄土は謗法も闡提 もおなじく生れて、もるるひともなく、のこるひともなし。諸仏の浄土にきら はれたる五障の女人は、かたじけなく聞名往生の益にあづかり、無間の炎に まつはるべき五逆の罪人は、すでに滅罪得生の証をあらはす。されば超世の悲 願ともなづけ、不共の利生とも号す。かかる殊勝の法なるがゆゑに、これを行 ずれば諸仏・菩薩の擁護にあづかり、これを修すれば諸天・善神の加護をかう ぶる。ただねがふべきは西方の浄土、行ずべきは念仏の一行なり。 持名鈔 本 P--1009 #2末    持名鈔 末 【8】 問うていはく、念仏の行者、神明に仕うまつらんこと、いかがはんべる べき。  答へていはく、余流の所談はしらず、親鸞聖人の勧化のごときは、これをい ましめられたり。いはゆる『教行証の文類』の六(化身土巻)に諸経の文を引 きて、仏法に帰せんものは、その余の天神・地祇に仕うまつるべからざる旨を 判ぜられたり。この義のごときは、念仏の行者にかぎらず、総じて仏法を行じ 仏弟子につらならんともがらは、これに仕ふべからずとみえたり。しかれど も、ひとみなしからず、さだめて存ずるところあるか。それを是非するにはあ らず。聖人(親鸞)の一流におきては、もつともその所判をまもるべきものを や。おほよそ神明につきて権社・実社の不同ありといへども、内証はしらず、 まづ示同のおもてはみなこれ輪廻の果報、なほまた九十五種の外道のうちな P--1010 り。仏道を行ぜんものこれを事とすべからず。ただしこれに仕へずとも、もつ ぱらかの神慮にはかなふべきなり。これすなはち和光同塵は結縁のはじめ、八 相成道は利物のをはりなるゆゑに、垂迹の本意は、しかしながら衆生に縁を結 びてつひに仏道に入らしめんがためなれば、真実念仏の行者になりてこのたび 生死をはなれば、神明ことによろこびをいだき、権現さだめて笑みを含みたま ふべし。一切の神祇・冥道、念仏のひとを擁護すといへるはこのゆゑなり。 【9】 問うていはく、念仏の行者は諸仏・菩薩の擁護にもあづかり、諸天・善 神の加護をもかうぶるべしといふは、浄土に往生せしめんがためにただ信心を 守護したまふか、また今生の穢体をもまもりてもろもろの所願をも成就せしめ たまふか。あきらかにこれをきかんとおもふ。  答へていはく、かの仏の心光、このひとを摂護して捨てずともいひ、六方の 諸仏、信心を護念すとも釈すれば、信心をまもりたまふことは仏の本意なれば 申すにおよばず。しかれども、まことの信心をうるひとは、現世にもその益に あづかるなり。いはゆる善導和尚の『観念法門』に、『観仏三昧経』・『十往 生経』・『浄土三昧経』・『般舟三昧経』等の諸経を引きて、一心に弥陀に帰 P--1011 して往生をねがふものには、諸仏・菩薩かげのごとくにしたがひ、諸天・善神 昼夜に守護して、一切の災障おのづからのぞこり、もろもろのねがひかならず みつべき義を釈したまへり。  されば阿弥陀仏は、現世・後生の利益ともにすぐれたまへるを、浄土の三部 経には後生の利益ばかりを説けり、余経にはおほく現世の益をもあかせり。か の『金光明経』は鎮護国家の妙典なり。かるがゆゑに、この経より説きいだ すところの仏・菩薩をば護国の仏・菩薩とす。しかるに正宗の四品のうち、 「寿量品」を説きたまへるは、すなはち西方の阿弥陀如来なり。これによりて 阿弥陀仏をば、ことに息災延命、護国の仏とす。かの天竺(印度)に毘舎離国 といふ国あり。その国に五種の疫癘おこりて、ひとごとにのがるるものなかり しに、月蓋長者、釈迦如来にまゐりて、「いかにしてかこの病をまぬかるべき」 と申ししかば、「西方極楽世界の阿弥陀仏を念じたてまつれ」と仰せられけ り。さて家にかへりて、をしへのごとく念じたてまつりければ、弥陀・観音・ 勢至の三尊、長者の家に来りたまひしとき、五種の疫神、まのあたりひとの目 にみえて、すなはち国土を出でぬ。ときにあたりて、国のうちの病ことごとく P--1012 すみやかにやみにき。そのとき現じたまへりし三尊の形像を、月蓋長者、閻浮 檀金をもつて鋳うつしたてまつりけり。その像といふは、いまの善光寺の如来 これなり。霊験まことに厳重なり。またわが朝には、嵯峨の天皇の御時、天下 に日てり、雨くだり、病おこり、戦いできて国土おだやかならざりしに、いづ れの行のちからにてかこの難はとどまるべきと、伝教大師(最澄)に勅問あり しかば、「七難消滅の法には南無阿弥陀仏にしかず」とぞ申されける。おほよ そ弥陀の利生にて、わざはひをはらひ難をのぞきたるためし、異国にも本朝に もそのあとこれおほし。つぶさにしるすにいとまあらず。されば国の災難を鎮 め、身の不祥をはらはんとおもはんにも、名号の功用にはしかざるなり。  ただし、これはただ念仏の利益の現当をかねたることをあらはすなり。しか りといへども、まめやかに浄土をもとめ往生をねがはんひとは、この念仏をも つて現世のいのりとはおもふべからず。ただひとすぢに出離生死のために念仏 を行ずれば、はからざるに今生の祈祷ともなるなり。これによりて『藁幹喩 経』といへる経のなかに、信心をもつて菩提をもとむれば現世の悉地も成就す べきことをいふとして、ひとつのたとへを説けることあり。「たとへばひとあ P--1013 りて、種をまきて稲をもとめん。まつたく藁をのぞまざれども、稲いできぬれ ば藁おのづから得るがごとし」といへり。稲を得るものはかならず藁を得るが ごとくに、後世をねがへば現世ののぞみもかなふなり。藁を得るものは稲を得 ざるがごとくに、現世の福報をいのるものはかならずしも後生の善果をば得ず となり。  経釈ののぶるところかくのごとし。ただし、今生をまもりたまふことはも とより仏の本意にあらず。かるがゆゑに前業もしつよくは、これを転ぜぬこと もおのづからあるべし、後生の善果を得しめんことは、もつぱら如来の本懐な り。かるがゆゑに無間に堕すべき業なりとも、それをばかならず転ずべし。し かれば、たとひもし今生の利生はむなしきに似たることありとも、ゆめゆめ往 生の大益をば疑ふべからず。いはんや現世にもその利益むなしかるまじきこと は聖教の説なれば、仰いでこれを信ずべし。ただふかく信心をいたして一向 に念仏を行ずべきなり。 【10】 問うていはく、真実の信心をえてかならず往生を得べしといふこと、い まだそのこころをえず。南無阿弥陀仏といふは、弥陀の本願なるがゆゑに決定 P--1014 往生の業因ならば、これを口にふれんもの、みな往生すべし、なんぞわづらは しく信心を具すべしといふや。また信心といふは、いかやうなるこころをいふ ぞや。  答へていはく、南無阿弥陀仏といへる行体は往生の正業なり。しかれども、 機に信ずると信ぜざるとの不同あるがゆゑに、往生を得ると得ざるとの差別あ り。かるがゆゑに『大経』には三信と説き、『観経』には三心と示し、『小経』 には一心とあかせり。これみな信心をあらはすことばなり。このゆゑに、源空 聖人は、「生死の家には疑をもつて所止とし、涅槃のみやこには信をもつて 能入とす」(選択集)と判じ、親鸞聖人は、「よく一念喜愛の心を発せば、煩悩 を断ぜずして涅槃を得」(正信偈)と釈したまへり。他力の信心を成就して報土 の往生を得べしといふこと、すでにあきらかなり。その信心といふは、疑なき をもつて信とす。いはゆる仏語に随順してこれを疑はず、ただ師教をまもりて これに違せざるなり。  おほよそ無始よりこのかた生死にめぐりて六道四生をすみかとせしに、いま ながき輪廻のきづなをきりて無為の浄土に生ぜんこと、釈迦・弥陀二世尊の大 P--1015 悲によらずといふことなく、代々相承の祖師・先徳・善知識の恩徳にあらずと いふことなし。そのゆゑは、われらがありさまをおもふに、地獄・餓鬼・畜生 の三悪をまぬかれんこと、道理としてはあるまじきことなり。十悪・三毒、身 にまつはれてとこしなへに輪廻生死の因をつみ、五塵・六欲、こころに染みて ほしいままに三有流転の業をかさぬ。五篇・七聚の戒品ひとつとしてこれをた もつことなく、六度・四摂の功徳ひとつとしてこころにもかけず。朝な夕なに おこすところはみな妄念、とにもかくにもきざすところはことごとく悪業な り。かかる罪障の凡夫にては、人中・天上の果報を得んこともなほかたかるべ し、いかにいはんや出過三界の浄土に生れんことは、おもひよらぬことなり。  ここに弥陀如来、無縁の慈悲にもよほされ、深重の弘願を発して、ことに罪 悪生死の凡夫をたすけ、ねんごろに称名往生の易行を授けたまへり。これを 行じこれを信ずるものは、ながく六道生死の苦域を出でて、あまつさへ無為無 漏の報土に生れんことは、不可思議のさいはひなり。しかるに弥陀如来超世の 本願を発したまふとも、釈迦如来これを説きのべたまはずは、娑婆の衆生いか でか出離のみちをしらん。されば『法事讃』(下)の釈に、「不因釈迦仏開悟  P--1016 弥陀名願何時聞」といへり。こころは、「釈迦仏のをしへにあらずは、弥陀の名 願いづれのときにかきかん」となり。たとひまた、釈尊西天(印度)に出でて 三部の妙典を説き、五祖東漢(中国)に生れて西方の往生ををしへたまふとも、 源空・親鸞これをひろめたまふことなく、次第相承の善知識これを授けたまは ずは、われらいかでか生死の根源をたたん。まことに連劫・累劫をふとも、そ の恩徳を報ひがたきものなり。これによりて善導和尚の解釈(観念法門)をう かがふに、「身を粉にし骨を砕きても、仏法の恩をば報ずべし」とみえたり。 これすなはち、仏法のためには身命をもすて財宝をも惜しむべからざるこころ なり。このゆゑに『摩訶止観』のなかには、「一日にみたび恒沙の身命を捨つ とも、なほ一句の力を報ずることあたはじ。いはんや両肩に荷負して百千万劫 すとも、むしろ仏法の恩を報ぜんや」といへり。恒沙の身命を捨てても、なほ 一句の法門をきける報ひにはおよばず。まして順次往生の教をうけて、このた び生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきに あらず。身命なほ惜しむべからず、いはんや財宝をや。このゆゑに斯琴王の私 訶提仏に仕へ、梵摩達が珍宝比丘に仕へし〔に〕飲食・衣服・臥具・医薬の四事 P--1017 の供養をのべき。これみな念仏三昧の法をきかんがためなり。おほよそ仏法に あふことは、おぼろげの縁にてはかなはず、おろかなるこころざしにてはとげ がたきことなり。大王の妙法をもとめし給仕を千載にいたし、常啼の般若をき きし五百由旬の城にいたる。されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすて て修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏 法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいは ひなり。まことにこれ、本師知識の恩徳にあらずといふことなし。ちからの堪 へんにしたがひて、いかでか報謝のこころざしをぬきいでざらんや。『長阿含 経』のなかに、師長に仕うまつるに五つのことあることを説けり。「一つには 給仕をいたし、二つには礼敬・供養す、三つには尊重・頂戴す、四つには師、 教勅あれば敬順してたがふことなし、五つには師にしたがひて法をきき、よ くたもちてわすれず」といへり。しかれば、きくところの法をよくたもち、そ の命をすこしもそむかず、こころざしをぬきいでて給仕・供養をいたし、まこ とをはげまして尊重・礼敬すべきなり。  これすなはち、木像ものいはざればみづから仏教をのべず、経典くちなけれ P--1018 ばてづから法門を説くことなし。このゆゑに仏法を授くる師範をもつて、滅後 の如来とたのむべきがゆゑなり。しかのみならず善導和尚は「同行・善知識 に親近せよ」(礼讃)とすすめ、慈恩大師は「同縁のともを敬へ」(西方要決) とのべられたり。そのゆゑは、善知識にちかづきてはつねに仏法を聴聞し、同 行にむつびては信心をみがくべしといふこころなり。わろからんことをばたが ひにいさめ、ひがまんことをばもろともにたすけて、正路におもむかしめんが ためなり。かるがゆゑに師のをしへをたもつは、すなはち仏教をたもつなり、 師の恩を報ずるは、すなはち仏恩を報ずるなり。同行のことばをもちゐては、 すなはち諸仏のみことを信ずるおもひをなすべし。他力の大信心をうるひと は、その内証、如来にひとしきいはれあるがゆゑなり。 持名鈔 末